ジョセフ・H・ピラティスの生涯

1883年 ドイツメンヘングラードバッハにて出生
父ハインリッヒ・フリードリッヒ・ピラティスは優れた体操選手であり、母エリザベスは自然療法士。このことが生涯を通じて、ピラティスが運動と健康の分野を追及していくことに影響したといわれています。
9人兄弟の2番目の子供であったピラティスは、喘息やくる病、リウマチに苦しむ病弱な子供で、ピラティスがこの技法を開発したのは、自身の虚弱な体を鍛えるためでした。 自分の力で病気を治し、強くて元気な体を取り戻す事に夢中になった子供時代のジョセフは、解剖学を学び、体操やボディビル、スキーなどに取り組みました。完璧な身体や精神の状態に関するギリシャやローマの哲学に刺激を受ける一方、ヨガや禅、マーシャルアーツなど心と身体の調和を目指す東洋の伝統的な方法も高く評価し、自分のメソッドに取り入れていきました。

1912年 イギリスに移住

1914年 イギリス ランカスター収容所にて捕虜として抑留される。
他の捕虜仲間に、レスリングと自己防衛法を教えるようになりました。これが後々『ピラティス』と呼ばれる彼のエクササイズ法の始まりです。 また、ベットからスプリングを外して、寝たきりの患者さんのためにエクササイズ用の器具を作りました。
そののち、マン島に移送されて、病気になった他の捕虜のため看護師として働きました(正式な看護師の資格は持っていませんでした)。 戦後、ドイツに帰りハンブルグ警察に自己防衛術と心身コンディショニングを指導

1925年 ドイツを離れアメリカに渡る
ヒトラー率いるドイツ警察から新軍隊の訓練を依頼されたが、当時のドイツ警察の政治的な傾向が好きになれず、 アメリカに移民として渡ることを決意した、という説と、アメリカのボクシング界の重鎮から招聘されたためという二つの説があります。
道中、二度目の妻であり、彼のメソッドの発展と教育において不可欠なパートナーであるクララと出会い、結婚します。

1926年 ニューヨークのボクサーのためのトレーニングジムで働き始める

1930年 ピラティスがジムを買い取る
ピラティスのトレーナーとしての腕前が評判で、ジムの顧客はどんどん増えていきました。映画俳優で大スターだったローレンスオリビエ卿、 ビビアン・リー、キャサリンヘップバーンから、医師、ダンサー、音楽家、芸人、体操選手、裕福な商人、学生まで幅広い層の顧客がスタジオに押し掛けるようになりました。
この時期は、アメリカのバレエとダンスの創成期で、バランシンやマーサ・グラハムをはじめとする多くのダンサーがこのスタジオで学び、 ピラティスの作ったエクササイズはダンサーにとってリハビリとトレーニングのため、なくてはならないものになっていきました。

1934年 『Your Health』執筆

1945年 『Return to Life』執筆
この本の中には、世界中の人のことを思い、人生におけるすべての面をより良くするには、 という教育機関で教えられるほどの素晴らしい考えがつづられています。
彼は、自分が作ったエクササイズが様々な場所や、教育機関で行われることで、 すべての人を健康で幸せにし、病院や療養所、刑務所の必要性が減らせるという信念を主張しています。

1966年 スタジオのある939 Eighth Avenueビルが火事になる

1967年 ピラティス 87歳で死去
クララは、ピラティスが世を去った後も、引退するまでの数年間は指導を続け、スタジオを経営しました。

1977年 クララ・ピラティス死去

1996年に始まった商標登録の裁判で、2000年に「ピラティスはエクササイズの一般的な名称であり、商標登録としない」という結果がでました。 独占に関する権利が棄却された事により、多くの人がピラティスに取り組むことが出来るようになました。
今では、ピラティスの愛好者はアメリカだけでも1200万人以上にのぼります。